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執筆者:早稲田紘一

着手:2025年6月22日

更新:2025年6月22日

「働く意味」を探していた20年【サンプル】

目次
5歳|はじめてのお手伝い

小さな手が運んだ、はじめての誇り

その日は、近所のスーパーまで、母と一緒に夕飯の買い物に行った。

特別な日というわけでもない、いつもの夕方の風景だったはずなのに、今でもその日のことをよく覚えている。

母の買い物かごには、いつもどおり野菜や肉が無造作に詰められていた。僕はといえば、母に頼まれて玉ねぎの袋を持っただけ。それでも、手の中でずっしりと重たい玉ねぎが、なんだかすごく大人びたものに思えた。

家に帰って、玄関を開けると、母がふと立ち止まって言った。

「ありがとう、助かったよ。」

たったそれだけのひと言だったのに、胸の奥がぽっとあたたかくなった。

「ありがとう」って、こんなにうれしいんだ。

自分が何かの役に立てるって、こんなに誇らしいんだ。

子どもだった僕にとって、その感覚はほとんど魔法みたいなものだった。

それまでは与えられるばかりだったのに、自分が誰かに与える側になれた気がした。

今思えば、それが「働くこと」への最初の実感だったのかもしれない。

ほんの小さな一歩だけど、「自分の力で、誰かを助けられるんだ」と知った、その日の玉ねぎの重さは、大人になった今も、たしかに手に残っている。

12歳|父の会社が倒産した

音のないリビングで知った「現実」

その冬、家の中の音が消えた。

テレビはついているのに、誰も笑わない。食卓では箸がぶつかる音がやけに大きく響いて、母のため息だけが、やけにリアルだった。

ある日、父がぽつりと口にした。

「会社、だめになった。」

何を意味するのか、すぐには分からなかった。でもその日を境に、父はスーツを着なくなった。朝も早く起きなくなった。リビングの空気が変わった。大人たちは何かをひそひそ話していた。

「倒産」って言葉を、僕は初めて辞書で調べた。

「会社が立ち行かなくなること」とあったけど、それよりも先に頭に浮かんだのは、父の背中だった。小さくて、疲れていて、遠く感じた。

友達には言えなかった。

学校ではいつもどおり過ごしていたけど、心の中では「うちはもう普通じゃないんだ」と何度も繰り返していた。

この頃からだったと思う。「大人になる」って、自由になることじゃなくて、我慢することなんだと思うようになったのは。

「しっかりしなきゃ」「迷惑かけたらだめだ」

誰かが言ったわけでもないのに、自然とそんな言葉が胸にこびりついていた。

小さな僕には、何もできなかった。けれどその日を境に、「家計」とか「仕事」とか、まだ遠いはずだった言葉たちが、現実の重みを持って近づいてきた。

まだ12歳だったけれど、心の中で何かが終わり、何かが始まったような気がした。

16歳|バイトで初めてお金を稼いだ

深夜のコンビニで見つけた「自分の価値」

「高校生可・夜勤歓迎」

その張り紙を見て、すぐに電話した。家計が苦しいわけではなかったけれど、「自分の力でお金を稼いでみたい」という気持ちが強くなっていた。

深夜の高校生バイトは基本的に禁止なはずだけれど、時代だったのかそのあたりは緩かった。

はじめてのアルバイトは、近所のコンビニ。深夜シフトは眠気との戦いで、しかも覚えることが多すぎて、初日は何度も冷蔵庫裏で深呼吸した。

でも、妙に心地よかった。

お客さんに「ありがとう」と言われること。

品出しが終わって棚がきれいに整った瞬間の達成感。

何より、「今、自分の時間を誰かのために使っている」ことが、誇らしかった。

給料明細を初めて手にした日。

数字が並んだ小さな紙切れを何度も見返した。眠い目をこすって、寒い夜を我慢して、自分の手で稼いだお金。たった数万円でも、紙幣の重さが、はじめて「自分の価値」を教えてくれた気がした。

学校では「勉強しろ」としか言われなかったけど、働く現場では「ありがとう」も「助かったよ」も飛び交っていた。

なんだか、こっちのほうがリアルだと思った。

机の上で覚えることより、レジで覚えた「気遣い」のほうが、ずっと役に立ちそうな気がしていた。

社会の片隅に、ほんの少しだけ自分の居場所ができた。

そんな感覚がうれしかったし、「もっとできるようになりたい」と思った。

あの頃、僕ははじめて「時間=価値」なんだと知った。

働くことが大人への第一歩なら、僕はその一歩を、深夜のコンビニで静かに踏み出していた。

19歳|大学を中退

空っぽのノートと、進まない時間

推薦で入った大学だった。

周りからは「順調だね」と言われていたし、自分でも「これが普通なんだ」と思っていた。

でも、講義のノートはどんどん白紙になっていった。

出席はしても、頭には何も入らない。教室のざわめきが遠く感じる。

サークルにも馴染めず、バイトもなんとなく続かない。

誰かと話していても、自分が何をしたいのか、何を考えているのか、うまく言葉にできなかった。

気づけば、休学届けを出していた。

あんなに頑張って貯めたお金が無駄になっているという気持ちはあった。

「一度立ち止まって考えたい」なんて書いたけど、本当は何も考えられていなかった。

やる気がないわけでも、問題があるわけでもない。ただ、どこにも自分がいないような、ぼんやりとした毎日。

中退を決めたとき、親は何も言わなかった。

それが余計にこたえた。

「ちゃんとしなきゃ」「頑張らなきゃ」と思えば思うほど、自分の中の空白が大きくなっていった。

友人たちは就活の話をし始めていた。

SNSには、資格を取ったとか、留学したとか、インターンがどうだとか、そんな投稿が並ぶ。

画面の向こうで、みんながどんどん前に進んでいるのに、自分だけが取り残されている気がした。

でも、それでも辞めた。

一度、全部ゼロに戻したくなった。

「逃げた」と言われても構わなかった。むしろ、自分の中では「逃げることを許した」という初めての選択だった気がする。

今思えば、あの空白の時間こそが、自分と向き合う準備期間だったのかもしれない。

何者でもない自分を、いったん受け入れるための、長い助走だった。

22歳|ベンチャー企業に入社

息つく暇もないけれど、生きてる実感があった

中退して、しばらくふらふらしていた。

派遣、短期バイト、契約社員。どれも「働く」には違いなかったけれど、「自分がここにいてもいなくても変わらない」と感じてしまう日々だった。

そんなとき、たまたま紹介されたのが、設立間もない小さなITベンチャーだった。

正直、会社というより、でっかいサークルみたいな空気だった。

代表も年上だけど若くて、オフィスもマンションの一室。

でも、なぜか直感で「ここでなら何か変わるかもしれない」と思った。

入社してすぐ、目の前が真っ白になった。

やることは山ほどあるのに、マニュアルもなければ誰も教えてくれない。

一日中PCの前で調べて、コードを書いて、資料を作って、失敗して、怒られて、また修正して。

朝のメールを夜まで返せないまま日が暮れる。そんな日々が続いた。

でも不思議と、心は動いていた。

しんどいのに、つらいのに、「自分が動けば、誰かの数字が伸びる」「成果になる」

その実感が、たまらなく新鮮だった。

自分の提案が通ったり、クライアントに「助かりました」と言われたりすると、「ああ、今の自分は、たしかに何かを作ってる」と感じられた。

あの頃の自分には、達成感なんて贅沢な言葉は似合わなかったけれど「生きてるな」と思えたのは確かだ。

気づけば、深夜のオフィスが日常になっていた。

缶コーヒー片手に、誰もいないフロアで残業していると、ふと不安がよぎる。

「こんな働き方、いつまで持つんだろう」

でも同時に、「もう少しだけ、この場所にいたい」とも思っていた。

あの頃が一番、仕事に夢中だったかもしれない。

26歳|過労で倒れる

削れていくのは、時間じゃなくて、自分だった

あの頃、オフィスは「戦場」ではなく、もはや「戦いの跡地」だった。

朝出社して、気づけば終電。家には風呂とベッドしかない。

同僚の顔色も、日替わりで悪くなっていくのがわかるほどだった。

「若いうちは、多少無理してでも結果を出さないと」

「今は耐える時期だ」

そうやって自分に言い聞かせて、夜食のカップ麺とエナジードリンクでごまかしながら働き続けた。

その日もいつも通り、誰もいない深夜のオフィスで資料を直していた。

タスク管理アプリには未完了の赤いマークが並んでいて、それを片っ端から潰すように作業をしていたら——

急に、視界がぐらっと揺れた。

立ち上がろうとした瞬間、意識が遠のいた。

気がついたら、病院の天井だった。

点滴の針が刺さった腕がじんわり痛かった。

診断は「過労とストレスによる一時的な失神」。

医者に「これ以上は危ない」と、静かに、でもはっきり言われた。

会社には「すぐ戻ります」と伝えたけれど、心はそれどころじゃなかった。

「俺、何してるんだろう」

初めて、その問いが胸に刺さった。

誰かの期待に応えることで、自分の存在価値を確かめてきた。

「頑張ってるね」と言われるたびに、「まだ大丈夫だ」と思い込んでいた。

でも本当は、もうずっと前から、限界を超えていたのかもしれない。

ベッドの上で、天井を見つめながら考えた。

働くって、なんだ?

結果を出すこと? 成長すること? 稼ぐこと?

それとも、命を削ってまで、何かを証明すること?

あの日から、「働く意味」という問いが、胸に巣を作った。

まだ答えは出ていなかったけれど、無視できない問いだった。

30歳|フリーランスとして独立

誰かの名前じゃなく、自分の名前で勝負する

あの日、会社のIDカードを返した瞬間、自分が宙に浮いたような感覚になった。

肩の荷が下りた安堵と、これから始まる不確かな道への不安。

どちらもリアルで、どちらにも震えていた。

周囲には「やりたいことがあって辞めたんでしょ?」と言われた。

だけど正直なところ、辞めた理由は逃げたいが半分、変わりたいが半分だった。

あのまま走り続けたら、自分が自分でなくなってしまいそうだった。

独立して最初の半年は、まるで無音の空間にいるようだった。

メールも鳴らない。電話も来ない。

営業をかけても、ほとんどは返信すらなくて「名刺に社名がない」というだけで、こんなに人は冷たくなるのかと痛感した。

でも、ある日。

SNSで細々と発信していた自分の記事を、ある小さな企業が「読んだ」と言ってくれた。

その会社の社長が「よかったら企画をお願いできませんか」と言ってくれた。

契約書に、自分の名前だけが書かれているのを見て手が震えた。

会社の看板も、上司の承認もない。

すべてが、自分の責任で自分の成果だった。

怖かった。けれど、嬉しかった。

「選ばれる」って、こんなに誇らしいことなんだ。

それから少しずつ、依頼が増えた。

紹介が紹介を呼んで、ようやく生活が成り立ち始めた。

もちろん不安は尽きなかったけれど、ふと思った。

「働く」って、誰かの正解をなぞることじゃなくて、自分で問いを立て続けることなのかもしれない。

そして、答えを出すのはいつも誰かじゃなく、自分だということ。

35歳|チームと共に働く

「ひとりで頑張る」に、終止符を打った日

独立して数年、ようやく仕事が軌道に乗ってきた。

毎月の収支に一喜一憂せずに済むようになり、少しだけ余裕もできた。

だけど、ある時気づいてしまった。これ以上、自分ひとりでできることには限界があると。

スケジュールはいつもパンパン。

アイデアを練る時間より、メールや事務処理に追われる時間の方が長くなっていた。

「好きなことで食べていく」とは言うけれど、このままじゃ作業屋になって終わる――そんな予感がしていた。

だから思い切って、仲間を募った。

元同僚に声をかけ、学生時代の友人に相談し、SNSで出会ったクリエイターとも繋がった。

初めて、自分のプロジェクトに他人を巻き込むことになったとき、怖さもあった。

「失敗したら全部自分の責任だ」と思っていたから。

でも、実際にチームで動いてみてわかったのは、ひとりで背負わないということが、どれだけ心を軽くするかということだった。

誰かとアイデアを出し合い、進捗を喜び合い、壁にぶつかったら一緒に悩む。

そこには、自分ひとりでは絶対に見られなかった景色が広がっていた。

自分で全部やることが「かっこいい」と思っていた時期もあった。

でも今は違う。

「信頼できる人たちと、同じ旗を見て進む」ことの方が、ずっとかっこいい。

働くことの意味が、またひとつ変わった。

個の力から、つながりの力へ。

その変化を、誇らしく思っている。

40歳|息子に「なんで働くの?」と聞かれた

「働く意味」を、問い直すとき

ある日、夕飯のあとに、ぽろっと息子が聞いてきた。

「ねえパパ、なんで働くの?」

その問いは、想像よりずっと真っ直ぐで、胸に刺さった。

「お金を稼ぐため」と答えることもできた。

「家族を養うため」とも言えた。

だけど、どれもしっくりこなかった。

それはきっと、本当の答えを自分自身がまだ探しているからだと思う。

この20年、がむしゃらに働いてきた。

「成果を出すこと」「評価されること」「生活を成り立たせること」

どれも大事だった。

でも、どれも「働く理由」の一部にすぎなかったように思う。

若い頃は、意味なんて考える暇もなかった。

倒れるまで働いて、自分を見失って、それでもまた働いてきた。

何度も方向を変えて、そのたびに「これだ」と思ったものを追いかけてきた。

息子の問いに、答えは出なかったけれど、その晩、眠る息子の寝顔を見ながら、ふとこんな言葉が浮かんだ。

「働くことって、自分と向き合い続けることなのかもしれない」

迷ってもいい。揺れてもいい。

大切なのは、自分で選んで、自分で責任を持つこと。

働くことは、そんな「生き方の練習」なのかもしれない。

次、息子に同じことを聞かれたら「パパは、働きながら自分をつくっているんだよ」って、笑って言えたらいいなと思っている。